ちゅうわけで、昨日の続きです🐢
おとんがバリバリ現役の53歳で認知症に診断され、おかんとおとんの格闘が始まりました。
私はその時、実家から🚘車で1時間くらいの🏫学校のそばのアパートに住んでおり、学校の後は平日は24時頃、週末は日付を越えて夜中の3時頃までアルバイトをしていたし、そのバイト代で学費や生活費を(家賃や車の維持費なども)払っていたので、実家に戻るのも不可能な状態でした🏃♀️💦(妹も就職して東京だった)
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認知症って、1番大変な時期って、何もかもわからなくなって寝たきり…ではなく、中途半端に色々わかって動き回る時期なんですよね💦
母も、日中・夜間を通し、動き回り、🏃♂️時には家を飛び出していってしまう父に振り回されて大変でした。🚗車の鍵こそ隠して運転できないようにはしていたけど、🔑その管理も大変だったようです。
それに、50代と若くて、🏃♂️元気に走り回る認知症の人って、全然受け皿がないんです。高齢者施設なんかに入る用件も満たしておらず、🏠家でみる以外の方法がない状況。
私も母も、介護の勉強をしていた事があったので、介護の大変さ・壮絶さはわかっており、お金をもらって勤務時間だけ関わるのも相当のストレスな事を理解していました。
なので、私も出来るならどこか施設へ…とは思っていましたが、どうしようも出来ない日々が3年も続きました⏳
そして、私たちが下した判断は🏥精神科の病院に預ける、という、その時考えうる唯一の選択肢でした😞在宅から離れてしまったら、おそらく認知症も進んでしまうとは思いましたが、もう家でみるのは母が限界だと思ったからです🙅♀️
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認知症になると色々な事がわからなくなってしまうのは、みなさんご存知だと思いますが、それが自分の親、しかも50代で…というのは本当にショックですよ🌇
友人の親は元気に働いているのに、私の家だけ…。😢しかも、あんな厳しかった父が、家に帰ったら童謡を歌ったり、トイレを失敗したりするんですよ。想像してみてください。
そして精神科に入院。🚑引き受けてくれたのは、閉鎖病棟しかない、今思えば古ーーーい、病院側の人間主体のところでした。面会に行くと、病棟内には人恋しくて面会者に寄ってくる患者さんがいたり、ずっとしゃがんでいる人がいたり、暴力沙汰があったりして、いかにも精神科って感じの病棟。
でも、家で介護できないから、それでもありがたかったし、他に行くところがないから、その病院にお願いするしかなかった。結局その病院には3年くらいお世話になることになりました。
なぜ3年かというと、3年後に父は急変して亡くなったからです🙏
😇 😇 😇 😇 😇
その頃には、今度はワタシ、看護学校に通っていました😂(どういう方向転換なんだよ)
看護学校の課題に追われていると、1本の電話…母からでした。
「お父さんが急変したって…!!私も今、向かうところ!」と。
🚗💨病院から1番近くに住んでいた私も、すぐ向かうことに。
そして、母より先に病院に到着。
でも、着いてもなかなか父に会わせてくれない病院の人々。
「少し待っててください」と言われて、ずっと呼ばれないので待ちきれなくなった私が父のいる部屋に行くと…
パッと見て私、わかりました。
(あ、死んでるな)って。
(急変っていうか、亡くなってるのを発見して連絡くれた感じだな)と、状態を見て悟りました。
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そこでは、ボーッと使えなさそうな💉医者が突っ立っていて、家族の手前、心臓マッサージを指示しており「きびしいな…」とかそれっぽいセリフを呟いておりました。
この時の様子は私も多少混乱していたみたいで、はっきりと覚えていない所もあるのですが、開眼してる(けど亡くなっている)父を見て、「死後硬直は亡くなって2時間って習ったし、変に固まる前に、目も閉じてもらって、おかんが来るまでにもう少し穏やかなお顔にせんと!!」と焦った記憶だけがはっきりとあります💥
それに、医療者に「もう死んでんじゃん!いいよそういうの!(蘇生アピールしてんじゃねえぞ)」みたいな事を言ったのは覚えています。(←今思うとつよい)
私的にはまあ、ショックだったし、病院もク◯みたいな対応だったと思うけど、おそらく、他の場所にいたら助かったとか、そういうものでもなかったと思うし、今でも、母より先に私が駆けつけて、母がくる前に多少穏やかなお顔に仕上げられたのはよかったなぁ、と思っています🙏
なんか疲れたからここまで✏️
明日は、なんか楽しい話を書きたいな🐢